殲滅直線

死が。

直上より振り下ろされる鋭利な、そして避けがたい鋼の一撃を前にして、ザリスは暢気にも全く別の事を考えていた。
その事柄とは、先ほどからザリスの下腹部を熱く疼かせているあるひとつの衝動である。

トイレに行きたい。

すなわち、彼女の膀胱は極めて切迫した状況下に立たされており、その危険の度合いたるやザリスの生命が直面している危機と比してもなんら遜色の無い・・・どころか当人にとってはまさしく「上」より「下」が要求する危機の方がより切実なのであった。

やんごとなき事情により車椅子での生活を余儀なくされていたザリスは、当然排泄行為をするにも余人と同じようにとはいかない。魔術による空中浮遊、極限の精神集中と並列して行われるその行為に、一切の余裕や慢心は許されない。
排泄後の脱力感に油断し、便器に落下してその身を濡らした事とて少なくは無い。
そんな彼女にとって、トイレに行きたいという欲求はつまり苦境に身を置かんとする決意を固めさせる為の引き金であったのだ。

ザリスの精神はここにきて精錬された鋼のような硬質さを得るに到り、そして至極当然と言うべきか・・・頭上で展開されつつある危機的状況がもたらし得る、悪魔的な結果に思い至る。
もしこの刃が自分に振り下ろされたならば、その衝撃で自分はどうなってしまうのか?
死ぬ、などということはこのさい問題ではない。
激しい衝撃は膀胱を揺さぶり、ただでさえ決壊寸前の緊張を破り、洪水となって溢れさせるだろう。
その結果、何が起こる?

そう、もう間違いは無い。

「・・・『おもらし』だ」
おもらし。23歳の女が、巨大な剣にドタマかち割られて、おもらし。
「それだけは、」

それだけは、避けなくてはならない。
切実な願い。それが現実になってしまったらという、圧倒的な恐怖。
ザリスの精神は、その恐怖を逆に闘争心へと転化させた。
「やらせるか」

『おもらし』だけは。
「なんとしても、『おもらし』だけは回避してみせるっ!!」

決意を宿す瞳の前には、防御不能の破壊力を持つ刃と破壊しても瞬時に再生する半不死の異形。
絶望的。 覆しようの無い状況を目前にして、しかしザリスは、

「―――邪魔」

風が、吹いた。
一陣の旋風。ザリスの用いた魔術はただそれを起こすだけの小さなものだ。
しかし、その旋風一つで斬撃の軌道が捻じ曲がり、あまつさえ刀身が錆付いていく。
「物質の回転(ロール)」と呼ばれる現象であったが、魔術に疎い猫剣にそれを知る術は無い。
追撃とばかりに放たれた爆炎の魔術。高熱と爆風により砕け散った刀身を再生させようと発動させた「楽園」の特殊能力を、しかしザリスは冷ややかな瞳で否定した。
「黙れ、猫風情が」
彼女の唇がその言葉を紡ぎだしたその瞬間、世界が静謐を湛え、そしてそのまま何も起こらなかった。
「ばっ、」
獣の剣はそのまま、音も無く崩れ落ちていく。
「馬鹿にゃぁぁぁぁっ?!」

再生の能力は発動しない。ザリスが発動させた『静謐(サイレンス)』の魔術は、彼女が用を足す際に何者にも妨げられない環境を作り出すために編み出された秘中の秘である。
この魔術は彼女の膀胱が切迫した状況下においてのみ発動し、用を足す、というある一つの目的のためにのみ使用を許されている。

崩れ落ちる。ガラガラと、しかし音は立てずに。無残な光景だけが流れ、そして無常に過ぎていく。
果たして。
ザリスがその障害を排するために要した時間は、たった6秒に過ぎなかった。


ザリスの意識は既に別の場所へ向かっている。
背後、ザリスの最大速度を遥かに凌駕する高速で激進を続ける黒い影。鋼の巨人。
向かう先は、ザリスと全く同じ。

塔の中に備え付けられたトイレである。
あの鋼の巨人、メテオラがトイレに突っ込めば、ザリスが用を足すべき場所は、粉々に破壊される。
ザリスは決意をひとつ固めると、車椅子の車輪を高速で回転させ、トイレに向かって直進した。

トイレまでの距離はおよそ五キロ。
魔術師と巨人の、熾烈なカーチェイスが始まった。

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