仮面

響き渡る叫びに振り返ったフィアマが見たものは、凄まじい形相で倒れ行く少女と、倒れ臥した少女の頭に追い討ちの剣を突き立てた男が荒く息を吐いている場面だった。
がばりと顔を上げて男が叫んだ。
「無事か!?」
誰が?!などと返す余裕も無しに男がフィアマの両肩をむんずと掴み、激しく揺さぶってくる。力強い握力にフィアマは思わず顔を顰め、
「何処にも痛いところは無いか?! あと屠殺彦にもなにか変なことを、」
「変なことって何よっ、屠殺彦様になに言いがかりつけてんのっていうかアンタの手が痛いからさっさと離しなさいよこの変態っ」
凄まじい嫌悪感が背筋を走る。一分一秒でも触れていたくない、そんな感情がスパークした。
拒絶された男は一瞬ひどく傷付いたような顔をして、そして勢い屠殺彦にすがりついたフィアマを見てさらに顔をゆがめた。
なぜ。

なんでこの男はこんなに悲しそうな顔をするのよ。
フィアマは、その時胸の奥に生じたしこりのような、正体不明の違和感を捕まえようとして、
そして失敗した。
その時、何故か彼女はもう二度と手に入らない、とても大切なものを取り逃してしまったような、凄まじい喪失感を味わっていた。
何か取り返しのつかないことをしてしまったような、何か大事な事に失敗したような、でもその何かがわからない、そういう感覚だった。
そしてまた、それを再び掴む機会は二度と無いだろうと、言い知れぬ不安感を覚えながらフィアマは予感するのだった。



一方、フィアマとデスキャベツが無言で視線を交わしている間、屠殺彦の中のヒーローソードはかつて無い混乱の最中にあった。
デスキャベツはヒーローソードとは知己である。この戦いに挑む前、同じ馬車に乗り合わせ、再会した時には共に全力で刃を合わせようと約束を交わした好敵手である。
それが、このような違った姿で再会し、尚且つ間にこのフィアマという良く分からない少女を挟むことになるとは思いも拠らないことだった。
その上。ヒーローソードはげんなりと、心の中で嘆息する。
あのデスキャベツの動揺ぶりは、恐らくフィアマに惚れている。
ヒーローソードとてそうした男女の機微にそれほど長けているわけではないが、あの時霧のまくろを打ち倒したデスキャベツの必死さから類推するのはそう困難ではない。
が、それと同時に、フィアマの気持ちがデスキャベツでなく、自分の方に向けられているのも明らかだった。
正確に言えば、フィアマが好意を抱いているのは自分ではない。この肉体の本来の所有者である屠殺彦である。
中身が違うからといってフィアマが好意を抱いている対象が自分ではないと断定していいのか、すこしヒーローソードには自信が無かったが、しかし彼は自身の本来の肉体は元の、今は存在しない肉体であるという拠り所を失いたくなかった。
全く異質な肉体に宿り続ける不安定な精神であるヒーローソードは、自分の精神を不必要に脆弱にさせるような思考は慎重に避けていた。
そのため、フィアマが好きなのは飽くまでも屠殺彦の以前の精神だと決め付けることにした。

そうなると、この場には非常にややこしい三角関係が形成される事になる。
デスキャベツはフィアマが好き。
フィアマは屠殺彦が好き。
屠殺彦は既に存在せず、その中のヒーローソードはデスキャベツと好敵手同士。
加えてデスキャベツは屠殺彦を危険な存在だと認識している。


この場で自分の正体を明かしてしまってはどうか?
しかしその場合フィアマが友好的に接している理由が無くなり敵対関係に陥るかもしれないし(屠殺彦の精神を殺した仇として恨まれる可能性すらありうるのだ)、そうなればフィアマに味方するであろうデスキャベツとも不本意な形で決着をつけることにもなりかねない。
何より、ヒーローソードはこの場においては、というよりこの戦いの全体に於いて、自分の精神が屠殺彦の中に隠れ潜んでいる事は隠し通すべきだという予感がひしひしとしていた。
それがどのような有利に繋がるかは未だに彼にも想像がつかなかったが、しかし『秘密』とはいつなんどき切り札に化けるか分からないものなのだ。
このような序盤で、手の内を全て晒すべきではない。ヒーローソードの理性は、自分の生存を隠し通す事に決定した。

つまり。
この場で、今。ヒーローソードは屠殺彦を演じたまま、二人を騙してこの場を切り抜けなければならないのだ!